三重 八鬼山越え(熊野古道)の番外編 鬼が城・七里御浜・熊野速玉大社・熊野本宮大社巡り

順番が前後しますが、八鬼山越え の前日いろいろと尾鷲・南紀を巡りましたのでチョット紹介しておきます。
本来の目的は、「八鬼山を熊野古道を用いて登る」ために尾鷲に「前泊」することでしたが、時間があったので色々と観光することにしました。

本当は、熊野古道の数多くの峠や難所をクリアしてから、熊野三山「熊野那智大社、熊野速玉大社、熊野本宮」にお参りするのが古来の参詣者同様の順序になるわけですが、今回は登山の前日にお参りしてきました。

というわけで、登山ネタはありません。すみません。

伊勢自動車道から紀勢道を抜けて鬼が城へ

伊勢自動車道を南に向かって走ります。
勢和多気JCTで尾鷲方向に進路を取ります。そのまま終点の尾鷲北ICまで行きそこからは一般道の道です。
国道42号線を南下すると、翌日登る予定の八鬼山への登山口のある中部電力の発電所が左側にあります。

さらにしばらく進むと、左に「鬼が城」と大きな看板を発見。そのまま車で進みました。奥には広い駐車場(無料)があり早速降りてみて回ることにしました。

正直にいうと、熊野の神宮に行くついでで、あまり期待せずに来ました。
が、自然が作った(風化・浸食による)奇妙な形の岩と、太平洋の水平線がきれいかつ雄大でしばし見とれてしまいました。

まず、駐車場付近に尾鷲・熊野地域の観光案内版です。鬼が城は、「名勝」かつ「天然記念物」とのこと。

三重 鬼が城 尾鷲観光版

本当は、ぐるっと回って行けるみたいですが、奥の木戸以降は通行止めでした。↓

三重 鬼が城 通行止め看板

鬼が城に至る途中には、お土産屋さんや、カフェ等も。

三重 鬼が城 売店

鬼が口を開けているように見えます。↓

三重 鬼ヶ島06

三重 鬼が城01

三重 鬼が城02

三重 鬼が城03

「鬼の口」に近づくと、かなりダイナミックな形をしています。

三重 鬼ヶ島05

三重鬼が城04

波の音と雄大な風景を堪能し、七里御浜へ向かうことにしました。

国道42号線を南下し、七里御浜へ

そのまま車で42号を南へ向かいます。迷うことなく到着。ショッピングセンター?らしき施設に到着。
駐車できそうだったのでここで昼食もとることに。

昼食後、海岸に出て散策しました。
冬の海岸、誰もいませんでしたが日差しは暖かく波の音が心にしみます。

三重 七里御浜 国道と海岸

道の駅から歩道橋を渡って海岸に出ます。↑右の道路は国道42号。

三重 七里御浜

三重 七里御浜と太陽

砂浜ではなく、小石~砂利の海岸です。長く長く続いていました。

熊野速玉大社へ

さらに、42号線を南へ向かいます。三重県と和歌山県の県境となっている熊野川を渡ってすぐを右折。少し行くと熊野速玉大社です。

朱色の社が美しく、バックの森とのコントラストが目を引きます。

和歌山 熊野速玉大社境内

平成16年に世界遺産に登録されています。↓

和歌山 熊野速玉大社境内世界遺産の石碑

和歌山 熊野速玉大社境内由緒

熊野速玉大社の由緒が書かれた案内板です。↑

 速玉大社の公式HP から引用

「熊野権現御垂迹縁起」(一一六四年長寛勘文)はじめ諸書によると、熊野の神々は、神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇五十八年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したことが記されています。
初めは、二つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀り、平安時代の初めには現在のように十二の神殿が完成しました。
日本書紀には、神武天皇が神倉に登拝されたことが記されています。悠久の古より人々から畏れ崇められてきた神倉山には、初め社殿はなく、自然を畏怖し崇める自然信仰、原始信仰の中心であったと思われます。また、ここから弥生時代中期の銅鐸の破片も発見されています。 十月の例大祭では、お旅所に新宮の由来となった最初の宮である「杉ノ仮宮」を造り、古式に則って神事が行われます。

人生甦りの熊野詣で

自然信仰を原点に神社神道へと展開していく熊野信仰は、六世紀に仏教が伝わると早くから神仏習合が進み、「熊野権現信仰」が全国に広まっていきます。「権現」とは、神が権り(仮)に姿を仏に変え、衆生を救うために現れるという意味で、過去・現在・未来を救済する霊場として熊野は広く人々に受け入れられていきます。
さらに、強者弱者、地位や善悪、信不信を問わず、別け隔てなく救いを垂れる神仏として崇敬され、人々は難行を覚悟で、熊野をめざし、「蟻の熊野詣で」の諺も生まれました。
熊野古道は、滅罪と救いを求めて難行を続ける人々がつけた命の道です。険しい山路を越えてやっとのことで宝前に辿り着いた人々は、皆涙に咽んだといいます。そして、熊野の神にお仕えする私達の祖先は、たとえ参詣者のわらじが雨で濡れていてもそのまま温かく拝殿に迎え入れました。これを「濡れわら沓の入堂」といい、熊野速玉大社の社訓になっています。
美しい感激の涙で心が洗われ、自分本来の姿を取り戻す旅・・・。熊野は生きる力を、もう一度受け取りに来るところなのです。命がけの旅は、私達が生まれた時に持っていたはずの純真なこころと姿を取り戻す試練の旅でもあったのでしょう。
難行苦行の果てにあるもの・・・それは、迷わず人生の再出発を踏み出すための勇気と覚悟の加護にほかなりません。熊野速玉大社が「甦りの地」といわれる本意は、正にここにあります。

「自分本来の姿を取り戻す旅・・・。生きる力を、もう一度受け取りに来るところ」

昨今の自分には、刺さる言葉です。沁みる、というより痛みます・・・。

熊野速玉大社 熊野牛王宝印

↑熊野牛王宝印 という名の護符です。購入して帰りました。力強い構図でパワーを感じます。

熊野牛王宝印

病気平癒、災難除けのみならず、熊野牛王は戦国武将間で忠誠心や絆を強く結ぶために用いられたほか、江戸時代には遊女が起請文として使うなど、広く庶民の間に親しまれてきました。太閤秀吉は諸国大名との誓約に、熊野速玉大社の熊野牛王を使いました。

そんなに広い神社ではありませんでしたが、力をもらったような気持ちになりました。

熊野本宮大社へ

速玉大社を後にして、熊野川をさかのぼるように並走する国道168号線を東へ向かいます。
本当は、熊野那智大社にも行きたかったのですが、時間が迫ってきており泣く泣くキャンセルに。

結構な距離を走行してようやく熊野本宮大社に到着しました。

和歌山 熊野本宮大社入り口

海に近い 熊野速玉大社とは異なる「森の中の社」といった風情です。↑

和歌山 熊野本宮大社 階段

鳥居をくぐると、結構な階段が待っています。158段あるそうです。↑

和歌山 熊野本宮大社境内

境内です。ここには、上四社 とよばれる 四つの社がありお参りの順番もしきたりがあります。
奥から2番目が、主に祭っている神様(主祭神)は、家津美御子大神(スサノオノミコト)とのこと。

和歌山 熊野本宮大社 以前の宮は河原にあったの図

↑;以前の熊野本宮大社は、現在の高台ではなく、熊野川のほとり(というか図を見ると中州?)にあり、現在でも「大斎原」として残っています。

和歌山 熊野本宮大社 八咫烏の石板

日本代表サッカーのエンブレムで御なじみ、八咫烏です。↑。

和歌山 熊野本宮大社 八咫烏案内

 

和歌山 熊野本宮大社 牛王宝印

速玉大社に続いて、本宮大社でも「牛王宝印」の護符を購入しました。↑。

さて、本殿のお参りが終了したので、以前本宮があった場所、「大斎原」に向かいました。

熊野本宮大社 大斎原 大鳥居

田んぼの中にもの凄く大きな鳥居です。↑

熊野本宮大社 大斎原 境内

鳥居の奥は広大な敷地で、ここには本宮の中四社、下四社 が祭られているとのこと。

熊野本宮大社 大斎原と熊野川河原

熊野川の堤防の上から大鳥居を見ます。堤防の右は河原です。↑

近くにある、和歌山県世界遺産センター、世界遺産熊野本宮館を観覧し帰路に着きました。翌朝の登山に備えて、鬼が城の近くにある宿に泊まりました。

八鬼山越え前の熊野観光まとめ

恥ずかしながら三重県に住んでいるのに、尾鷲・熊野には一度も言ったことが無かったのです。

自然が作り出す景観である「鬼が城」と「七里御浜」。
熊野三山の「熊野速玉大社」と「熊野本宮大社」。

数百年以上前にも、「熊野古道」を通じて伊勢から、「鬼が城」や「七里御浜」を超えて「熊野三山」への「蟻の熊野詣で」が行われてたわけで、それを少しでもなぞる旅ができて満足でした。

自分を取り戻し、「蘇り」の力があるとされる熊野三山のお宮で力をもらいました。
翌日の八鬼山越えのためのパワーがもらえました。

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